そんなこんなで坂東。

牧瀬大先生が捨てた坂東を私が拾って育てています。

「台湾」〜第三話〜
チーは雅代の反応を見ると満足そうに頷き、なにくわぬ顔で洗浄レバーを押した。「さあさ二人とも、トイレでなにぼーっと立ってるアルカ。行きましょう、高雄(別名カオシュン。主生産物はさとうきび)はまだ遠い」
「そうですね」坂東は持ち前の切り替えの早さで雅代を促し、3人はタクシーへと戻った。
車窓から染み入る初夏の緑が先ほどの何かを彷彿とさせないこともなかったが、坂東はタクシーを替えようとは思わなかった。たしかに先ほどの行為も目にした光景も決してありふれたものではなかったし、坂東にとってあまりの気持ちのいいものではなかった。しかしその点を除けばチーは親切で愛想がよく「アルミ缶の上にあるミカン」程度のダジャレならこなせる、申し分のない運転手であった。人間は誰しも自己顕示欲というものを持っている。坂東のそれはたとえば学生時代「スポーツ・身体運動」の時間にいかんなく発揮されたものだった。せいぜい温泉地でしか卓球のラケットを握ったことのない初心者の同輩達が習ったばかりのフォアハンドで繰り出してくる精一杯の玉を、さっと「スライス」して回転をかけて返してやるのが彼のひそかな楽しみだった。
「あ、ごめん、つい癖で回転かけちゃって」
もちろん相手の目を見てそう言うのだ。あの頃は若かった、自己顕示欲を包み隠すことを知らなかった。そんな自分をいとおしむ気持ちは、当然チーをいとおしむ気持ちへと変わっていった。チーもまた、自己顕示欲を包み隠すことを知らないのだ。若き日の自分を見つめるような眼差しで坂東はチーを見つめた。若いうちは、空気なんか読まなくったっていい。見せたいものを、精一杯見せに連れて行くがいい。
坂東はあいさつこそできないが、これでなかなか見所のある人物だ。

雅代は雅代で考えていた。彼女の中にはチーへの嫌悪感が渦巻いていたが、それだけでは割り切れない感情がそこにはあった。彼女の好きな言葉は「人の振り見て我が振り直せ」だ。もしかしたら自分も知らず知らずのうちに、彼と同じような行動をとって他の人に嫌悪感を与えてしまったことがあるのではないか?
彼女は目を閉じて記憶の糸を探り始めた。2人姉妹の長女として生まれ、四万十川を父とし母として育ってきた少女時代。
「私、東京へ行く」四万十川を捨てて上京した学生時代。目標を見失って毎日パチンコ漬けだった日々、そして「新しい四万十川」坂東との出会い−−
だがいくら思い出してみても、チーのような行動をとった記憶に出会うことはなかった。見せたことは、ない。見せたいと思ったこともない。ではこの割り切れなさはなんなのだろう。
そうだ。
目だ。
チーは雅代と同じ、緑色の左目を持っているのだった。それが何を意味するのかということに思い当たったとき、雅代はぞっとした。
「運転手さん、車をとめて頂戴。あなた、しばらく私をこの人と二人きりにしてくださらない。」
坂東はさすがに他人に妻を寝取られるのはご免だと思った。結婚生活も8年目に突入し最近めっきりそっちの方はご無沙汰だったが、雅代だって女だ。だが雅代の真剣な眼差しに、そのような貧困な想像をしている自分を恥じて坂東は可及的すみやかに車を降りた。
車から出た坂東は暇をもてあましていたので、学生時代を思い出して一人で数取り団ゲームを始めた。
「ぶんぶんぶぶぶん。ぶんぶんアヒル。ぶんぶん1羽」
「ぶんぶん堀江タカフミ。ぶんぶん2想定外。」
「ぶんぶん堀江タカフモ。おっと、ぶんぶん、3人!」
「ぶんぶん坂東。ぶんぶん4雅代。・・いや待てよ、4リーダーシップ・カリスマ、だったかな(爆)」